平田 吉胤(ひらた よしたね、1866年(慶応2年7月)- 1937年(昭和12年)2月25日)は、明治から昭和前期の地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・北。

経歴

豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡駅館村(駅川村、駅川町を経て現宇佐市)で北鉄十郎の二男として生まれた。国東郡草地村(現豊後高田市)の涵養舎で漢学を修め、同志社英学校、札幌農学校を経て東京専門学校で学んだ。1891年(明治24年)下毛郡城井村(耶馬溪村、中耶馬溪村、耶馬溪村、耶馬溪町を経て現中津市耶馬溪町)の素封家・平田カス(故猛郎の妻)の養子となり、1899年(明治32年)家督を相続した。

家業の農業を営む。道路・橋梁の整備に寄付を行い、水田の開墾、耶馬溪の観光開発を行うなど地域の発展に尽力した。その他、豊前銀行取締役となり、1927年(昭和2年)から1935年(昭和10年)まで耶馬溪鉄道社長を務めた。

また1900年(明治33年)城井村長に就任。1902年(明治35年)から死去するまで村会議員に在任。1907年(明治40年)から大分県会議員に3期在任し県会議長も務めた。1925年(大正14年)貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月29日から1932年(昭和7年)9月28日まで在任した。在任中は同成会に所属した。

親族

  • 妻 平田サワ(平田猛郎二女)

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 昭和3年版』帝国秘密探偵社、1927年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。

平田篤胤ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】 でも、日本が好きだ。

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大正14年建設の、地元の名士「平田吉胤」氏ゆかりの郵便局で、日本遺産「やばけい遊覧」の構成文化財です。

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