植村氏(うえむらし)は、武家・華族だった日本の氏族のひとつ。江戸時代には大和国高取藩主、維新後には華族の子爵家に列した。

歴史

三河の松平氏(後の徳川氏)に仕え、江戸時代初期に大名(大和高取藩家)となった一族が著名である。出自を土岐氏の一族と称している。主な人物としては松平清康、松平広忠の松平氏二代に亘って近侍したため、主君の暗殺の現場二度も同席することになった新六郎氏明(栄安、家次)がある。他に氏明の子で、徳川家康に仕え清洲同盟の成立に貢献した出羽守家存(家政、栄政)、松平信康に仕えた植村家次(氏明の孫)などがいる。

古参の譜代家臣でありながら、信康の自刃により一時離散した家次の影響で、江戸幕府成立の当初では大身旗本の身分にとどまった。その後は、家次の子の植村家政の代の寛永17年(1640年)の加増で2万5000石の大和国高取藩主となった。以降は譜代大名として明治維新まで存続した。

植村家壺が明治元年(1868年)に最後の高取藩主となり、明治2年(1869年)の版籍奉還で華族に列するとともに高取藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県まで藩知事を務めた。

明治17年(1884年)に華族令の施行で華族が五爵制になると、家壺は旧小藩知事として子爵家に列せられた。植村家壺子爵は、陵墓監に任じられ、畝傍御陵(神武天皇陵)に奉仕し、その勲功で従二位に昇った。

その三男で子爵位を継承した家治は、満州パルプ興行会社監査役、日本金沓鉱業株式会社の取締役、東亞高等鉄道学校校長などを歴任し、昭和5年より貴族院の子爵議員に当選。彼の代の昭和前期に植村子爵家の住居は東京市世田谷区池尻町にあった。

安祥七譜代

安祥松平家(松平宗家・徳川)の安祥城居城時代以来の最古参家臣、その代表的な七家の一つに挙げられており、『柳営秘鑑』(柳営鑑)の「御普代之列」には、下記のように記述がある。

御普代之列
一、三河安祥之七御普代、酒井左衛門尉、元来御普代上座、
    大久保、本多、元来田ニ作、中興ニ至テ美濃守故有之多ニ改。
    阿部、石川、青山、植村、西口、いろいろな右七家を云
    又ハ或ハ酒井、大久保、本多、大須賀、家筋無、榊原、平岩、植村 共イエリ。
一、三河岡崎御普代、井伊、榊原、鳥居、戸田、永井、水野、内藤、安藤、久世
    元来大須賀ノ出成候、井上、同上、阿部、秋本、渡邊、伊丹、家筋残候、屋代、同上、此十六家ヲ云

系譜

太字は当主。実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。*は同一人物。

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。 
  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。 
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。 
  • 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。 

関連項目

  • 高取城
  • 植村家忠 - 植村氏の子孫で2008年3月から高取藩のあった高取町の町長を務めている。



高取藩主植村家について 家系図探訪人

玉陵を案内する尚裕氏と植村直己氏一行 3 那覇市歴史博物館

【元朝日新聞・植村隆氏インタビュー詳報(7)】「大学には娘を殺すという攻撃があった」(4/8ページ) 産経ニュース

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