山下 好一(やました こういち、1912年4月17日 - 1997年1月7日)は、和歌山県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
来歴・人物
和歌山中時代、1927年春、1928年春夏、1929年春、1930年春夏、1931年春の、計7度甲子園に出場し、1927年春に優勝、1928年春に準優勝した。1928年は5番中堅手、1929年は4番投手、1930年は3番投手、1931年は3番中堅手を務め、チームの主力として活躍した。1928年夏の佐賀中学戦(今大会第3号)と、1930年夏の北海中学戦(今大会第1号)では、それぞれホームランを打っている。なお、1930年夏のホームランは、夏の大会史上3本目の満塁ホームランである。甲子園通算は15試合60打数9安打、1二塁打、2本塁打、打率.150。
なお春の選抜には1927年からは5年連続で出場しているが、これは現在の学制では更新される可能性のない珍しい記録である。
卒業後の1932年(昭和7年)、慶應義塾大学へ進み、主軸打者として活躍。東京六大学リーグ通算42試合出場、156打数44安打、打率.282、0本塁打、23打点。
慶大卒業後は日本製糖に勤務していたが、阪急の村上実球団代表に勧誘され、和歌山中時代にバッテリーを組んだ島本義文とともに、結成されたばかりの阪急に1936年に入団した。阪急では、同じく慶應義塾で活躍した宮武三郎や、同姓の山下実らと共にチームの主力として活躍。
チャンスに強く、1936年春夏・1937年春・1939年はチーム内で最多打点を記録している。また、1936年秋は出塁率.4586で初代最高出塁率に輝く(当時は連盟表彰の対象外)。
1940年(昭和15年)4月6日に西宮球場で行われた阪急ー南海戦は、阪急がプロ野球チーム1試合最多得点記録を樹立して32対2で大勝したが、山下はこの試合に4番左翼手として出場、6打数4安打2打点と打ちまくり、黒田健吾と共にチーム最多の5得点を記録している。
堅実好打の外野手で、戦前の阪急を語るうえで外すことのできない選手である。1943年に退団。
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 最高出塁率(当時連盟表彰なし):1回(1936年秋)
背番号
- 16 (1936年 - 1943年)
参考文献
- 永井正義『勇者たち』 現代企画室 1978年
脚注
関連項目
- 和歌山県出身の人物一覧
- 慶應義塾大学の人物一覧
- オリックス・バファローズの選手一覧




