巻 菱湖(まき りょうこ、安永6年(1777年) - 天保14年4月7日(1843年5月6日))は、江戸時代後期の書家・漢詩人・文字学者である。篆書・隷書・楷書・行書・草書・仮名・飛白の7体を巧妙に書くことが出来たが、特に楷書を得意とした。平明で端麗な書体は世に広く書の手本として用いられ(千字文など)、「菱湖流」と呼ばれた書風は幕末から明治にかけての書道界に大きな影響を与えた。市河米庵、貫名菘翁と共に「幕末の三筆」と並び称された。

作風

江戸時代を通して流行した唐様のうち、晋唐派(古派)に分類される。特に晋唐の古風を伝える。晋唐の書が中国書道の基本であるという立場から、伝統的な正しい書道を提唱。

楷書を欧陽詢、行書を趙孟頫・董其昌・蔡邕、草書を王羲之、李懐琳に学ぶ。特に本人53歳の時、近衛家にあった賀知章の肉筆『草書孝経』を見て非常に驚いたという。これによって晋唐書に開眼したと言われる。隷書に関しては「曹全碑(185年)」を学ぶ。仮名は上代様じょうだいようを好んだといわれ、その平明な書風は世に迎えられ化政期以降の書壇を市河米庵と二分した。

書家としての特色は、『説文解字』の研究など文字学をベースにしている点にある。五体を能くするだけにとどまらず、字体の来歴の正しいものを残している。書道を学問(『十体源流』)として成立させた日本唯一の人として当代随一の書家となった。

略歴

安永6年(1777年)、越後国巻駅(現在の新潟市西蒲区)に生まれる。父は不明(館徳信たちのりのぶという説あり)。母は福井村(現・新潟市西蒲区)出身の内藤安右衛門の娘。船問屋を営む父の私生児として生まれ、幼少時に父を失うと記す文献もある。

姓は池田、後にを襲名。名は大任おほに、字は致遠または起巌菱湖は号で、別号に弘斎。通称は右内と称した。元の姓は小山。なお、「巻」は生地の地名に由来。「菱湖」は近くにある鎧湖という菱形の湖(菱が多く育つ)に由来。

幼少の頃から新潟町(現・新潟市中央区)で育ち、天明4年(1784年)頃から興雲和尚に書の手ほどきを受けた。

天明6年(1786年)、館徳信死去。寛政3年(1791年)8月2日、母が自害する。寛政7年、江戸へ行き、儒学者・亀田鵬斎の門人となる。鵬斎とは書法や漢詩の作り方について議論を重ね、多くのものを得た。

文化4年、江戸軽小橋付近(現・中央区港町)に書塾「蕭遠堂」を開く。文化9年5月、鉄砲町(現・中央区日本橋本町)に移転。文化9年6月、信州・越後周遊の旅に出る。文化12年秋、江戸にもどる。

文政4年、主著『十体源流』を著す。この年、竹原栄と結婚。

文政10年閏6月、関西方面に旅に出る。11月5日上洛。京都で先人たちの書を拝観し、特に空海と近衛家熈から影響を受ける。『草書孝経』を拝観したのもこの旅の中でのこと(12月28日)。文政11年2月9日京都を立ち、4月に江戸にもどる。文政12年3月、火災で自宅を失う。

天保4年、中風を患い服薬するようになる。天保13年、病床に伏すことが多くなる。天保14年(1843年)4月7日死去。享年67。墓所は谷中霊園の天王寺墓地。

人物・エピソード

漢詩も能くし、酒を好み、放逸な人柄であった。晩年は中風を患い手が震えるので点画がのこぎりの歯のようになってしまったが、それがまた面白いと人気を博す。

出版

  • 著書
    • 文化13年:篋中集 - 編者として。版下も書く。
    • 文政4年:十体源流
  • 手本類
    • 文政6年:孫過庭『書譜』 - 大窪詩仏と共同
    • 文政9年5月:懐素『千金帖』
  • 共著・分担執筆
    • 享和3年3月:柏木如亭詩巻 - 書法論を書く
    • 文化9年春:秋草七草考 - 序文(亀田鵬斎 撰、巻菱湖 書)
  • 版下揮毫
    • 文化3年:晩唐詩選(館柳湾鈔録)
    • 文化5年:佩文斎詠物詩選(館柳湾鈔録)
    • 文化7年:中唐十家絶句(館柳湾編)

レガシー

明治政府及び宮内庁の官用文字・欽定文字は御家流から菱湖流に改められ、明治時代の学校教科書や手本の類はその多くが菱湖の書風であった。菱湖の門下生は1万人を超えたと伝えられている。石碑の揮毫も手がけており、現在全国に30基ほどの石碑が確認されている。

門弟

門弟に菱湖四天王(萩原秋巌・中沢雪城・大竹蒋塘・生方鼎斎)や巻鴎洲おうしゅう(1814年 - 1869年)、中根半仙などがある。鴎洲は菱湖の子で、優れた才能を持ちながら病弱のため早世した。巻菱潭りょうたん(1846年 - 1886年)は鴎洲の門人で、鴎洲没後、養子となり跡をついだ。

菱湖書

将棋の駒の書体の中に「菱湖書」と呼ばれるものがある。菱湖書の特徴は細身かつ流麗な字形である。将棋の対局中、場合によっては非常に長い時間、駒を見つめ続けることもあるが、見た目にすっきりとして目の負担にならないことが人気の理由だろうとする見解もある。

菱湖書の源流は巻菱湖に求められるが、駒の書体は菱湖自身が確立したわけではない。観戦記者の東公平は阪田三吉について調べる過程で、高濱作蔵という棋士の情報を得た。阪田が右腕として頼んだ人物である。作蔵の弟で棋士の高濱禎たかはまていの覚え書きには、禎自身が菱湖の手本から駒字を作った経緯が記されていた。この駒字をもとに、「近代将棋駒の祖」と謳われた駒師の豊島龍山が駒を作った。以上が菱湖書確立の通説となっている。

菱湖書のほかに「巻菱湖まきのりょうこ書」という書体もある。両者は外見はほぼ同一、由来も同様である(以上、日本将棋連盟の記者・松本哲平による)。

脚注

参考文献

  • 林淳「巻菱湖石碑一覧表」『近世・近代の著名書家による石碑集成―日下部鳴鶴/巌谷一六/金井金洞ら28名全1500基―』勝山城博物館、2017年、190-193頁。ISBN 978-4-9908306-1-8。 
  • 『図説 日本書道史』芸術新聞社〈季刊 墨スペシャル12〉、1992年。ASIN B00IGIOX9M。 
  • 藤原鶴来『和漢書道史』二玄社、2005年。ISBN 4-544-01008-X。 
  • 飯島春敬 編『書道辞典』東京堂出版、1975年4月25日。 
  • 松矢国憲 編『良寛と巻菱湖 越後が生んだ幕末の二人の書人』新潟県立近代美術館、2016年12月13日。 
  • 小松茂美 編『日本書蹟大観』 第二十四巻(第一刷)、講談社、1980年5月4日。 
  • 『書の総合事典』柏書房、2010年11月15日。ISBN 978-4-7601-3571-4。 
  • 中田勇次郎『日本書道の系譜』木耳社、1970年9月20日。 

関連項目

  • 日本の私塾一覧
  • 日本の書道史

外部リンク

  • 巻菱湖記念時代館 - 運営元の養玲社は「巻菱湖」を商標登録している(登録番号第4754786号、対象は印刷物)
  • 駒の詩 書体への誘い2~菱湖

巻菱湖法帖「楷書・勧学箴(折帖)」 文化遺産オンライン

日本萧远堂巻菱湖楷书《千字文》 第8页 书法专题书法欣赏

月山作 巻菱湖書 盛揚 斑入赤柾 碁盤、将棋盤製作の三輪碁盤店

巻菱湖楷書千字文欣賞 每日頭條

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